仙人掌……第四話 終業式


 


「あ〜ん〜り〜ちゃぁ〜〜ん!!」
 寝坊した私が慌てて歯を磨いていると、早苗ちゃんが迎えにきた。早苗ちゃんはいつもインターホンを鳴らさない。十回目ぐらいに、何で? と尋ねたら、電気代の節約だ、と言われた。母は私からそれを聞き、面白い子ねと、さして面白くもなさそうに言ったものだ。
 急いで口をゆすぎ、ランドセルを持って玄関へ行く。そして、母のいってらっしゃいの声に見送られ、私は一学期最後の学校へと向かった。
 徒歩十分の学校への道中、私達はいつもおしゃべりをして過ごす。セミの五月蝿い声が暑さを倍増させる中、月曜日である今日の話題は、毎週のごとく昨日のアニメだった。主人公が双子の魔法戦士であるこのアニメは、男女を問わず、小学校低学年を中心に大人気だった。
「あんなとこで終わるんだもん。続きがめっちゃ気になるよねー。 ザク、どうなっちゃうんだろう?」
「そこはやっぱり、アイラが助けにくるんだよ。弟をほっとくわけないじゃない」
 早苗ちゃんに向かって私は自分の予想を話す。
「でも、二人は今喧嘩中だよ。ザクが一人で乗り込んで行ったって、知らないんじゃない?」
 切り替えされて、私は言葉に詰まる。二人が喧嘩中なのを忘れていたのだ。
「どっちにしろ、次回が楽しみだよねー。あっ、校門のところに佐藤先生が立ってるよ。そこまで競争しよう? よ〜い、ドン!」
 早苗ちゃんに追求されたくなくて、私は話を終わらせて駆け出す。後ろから早苗ちゃんが、待ってよう、と言って追いかけてきた。
 
「はいっ! それでは、体調に気をつけて、楽しい夏休みを過ごしてね。宿題もちゃんとするのよ。じゃあ、かいさ〜ん!」
 佐藤先生の言葉で皆が一斉に席を立ち、教室はにわかにうるさくなる。
「か〜え〜ろっ!」
 廊下にでると、早苗ちゃんが待っていた。私のクラスが、一番終わるのが遅かったようだ。二人で靴箱へ向かう。
「今日、杏里ちゃん家でお昼食べる約束だったけど、時間決めるの忘れてたよね? 帰ってすぐに行ってもいい?」
 靴を履き替え、校門に向かって歩き出すとすぐ、早苗ちゃんが言った。
 私は約束を思い出し、しまった、と思う。寝込んでしまうなどと忙しくて、約束なんてすっかり忘れていたのだ。確か早苗ちゃんは、仙人掌を見たいって言ってたっけ。ここ二、三日、仙人掌の様子を見てないや。一昨日の晩に雨が降ったから水は大丈夫だろーけど、雑草が生えてきてるかも……。ちょっとマズイなぁ……。それに、お母さんに御飯のこと、言ったっけ……?
「ねぇ、帰ってすぐに行ってもいい?」
 私の返事が遅いので、早苗ちゃんはもう一度聞いてきた。
「え〜っと……。二十分後ぐらいでもいい? 私……、そう、ちょっとしなきゃいけないことがあるの」
「いいよぉ、分かった。じゃあ、家に帰って二十分後に行くね」
 私はほっとした。二十分あればなんとかなるだろう。
 その後の帰り道、私は聞き役になった。うん、へー、と適当に相槌を打ちながら、頭の中で帰宅後のシュミレーションをする。まずお母さんに御飯のこと確認して、仙人掌を見に行って、水をやって、雑草を抜いて……。
「じゃぁ、バイバイ」
「うん……ってあっ、バイバイ!」
 私は慌てて手を振り返す。いつの間にか、家の前に着いていた。急いで玄関扉を開けて家に入り、靴を脱ぎ捨てる。ダイニングキッチンを覗くと、昼御飯を作る母の背中が見えた。
「お母さん、ただいまー」
「ああ、お帰りなさい。今日は早苗ちゃんが来るんでしょ? あの子、嫌いなものなかったわよね?」
 言おうとしたことを尋ねられ、私はびっくりした。
「ないけど……。私、もう言ってたんだ。よかったぁ〜。ねぇお母さん、今日のお昼御飯はなぁ〜に?」 
「オムライス。とりあえずチキンライスだけ作ってるのよ。卵で包むときに温めればいいでしょ。で、早苗ちゃんいつ来るって? 」
「今から約二十分後だって。私、仙人掌の様子見てくるからね」
 そう言って、私はリビングのソファにランドセルを放り投げ、庭へ出る。ドアの正面に植わっている金木犀にセミがとまっているようで、センセンセンという鳴き声が五月蝿い。私はセミが嫌いだ。少し前まではセミの一生は短いのだから我慢しよう、と思っていたけど、最近佐藤先生が理科の時間にしてくれた話では、六年から十五年、土の中で過ごしているというではないか。土の中で鳴いて欲しい。そうしたらきっと、今よりは静かだろうから。
 間近でのセミの声に耳を抑えながら、私は仙人掌の傍へと向かう。
 その姿がはっきりと捉えられる位置に来たとき、私は仙人掌の異変に気づいた。……おかしい。黄色い植木鉢の中には、瑞々しい緑色ではなく、カラカラに乾いたような、くすんだ黄緑色のものが見える。
 私は焦って植木鉢へ駆け寄り、思わず中のものに手を伸ばす。私の手が触れると……それは動いた。雑草を抜いてあげる時に、私の指をさした棘はふにゃりとして、ちっとも痛くなくなっていた。私は呆然としながら黄ばんだ表皮を掴んでみる。と、簡単に持ち上がり、異常な程軽い。おそるおそる中を覗くと……スカスカになっていた。つまり、仙人掌の内側がなくなっていたのだ!
 私は愕然としながら考えた。何で? どうして? 
 二日前に雨が降ったのだから、水不足で枯れるわけがない。じゃあ、何故? 
 自分では分からない為、母に聞いてみることにした私は、仙人掌の成れの果てを右手にぶら下げ、キッチンへと向かう。周りから聞こえるセンセンという音も、もう気にならなった。
 キッチンにいた母は私が泣きながら向かってくるのを見て、料理をしていた手を止め、軽くため息をついてから私と目線を合わせる為に膝立ちになった。そして悲哀のこもったような目で私を見つめる。どうやら、仙人掌が枯れた理由を知っているようだ。
「サっ……っボテンがっ……」
 私は鼻水を啜り、双眸から溢れてくる涙を拭きながら、震える声を出した。
「杏里ちゃんの仙人掌……ね。昨日、パパが洗車中に車用洗剤をかけちゃったみたいで、ママが今日の九時ごろに見たときには、もうそんなんになっちゃってたの……」
 母は私の頭を撫でながら、一応すまなさそうに言葉を濁す。私は大きくしゃっくりをした。
「パパに知らせたら、帰りに新しいヤツ買って来てくれるって。大きくて立派なヤツだそうよ。それに、杏里ちゃんが大好きなモンブランも……。ね? パパのこと許してあげるよね?」 
 私は言葉を返さず、下を見つめていた。涙がポタポタと絨毯に染みをつくる。
 このとき私の胸の中には、悲しみと怒りと寂しさが同居していた。仙人掌が枯れた悲しみ、父の言動に対しての怒り、そして私と両親の価値観の違いによる寂しさだ。私の大切な仙人掌をすぐに代えがきくように言われたことで、思いいれの差を感じ、寂しかった……。
「あ〜ん〜り〜ちゃぁ〜〜ん!!」
 暫し訪れた沈黙を破ったのは、なんとものん気な声であった。
 私はビクッと身を強張らせると、右手に掴んだものへと視線を走らせ軽くパニックに陥った。早苗ちゃんにどう説明しよう?
「はぁ〜い、ちょっと待ってねー!」
 母はその声に明るく答え、玄関へと駆けて行った。さっきまでの暗めな顔をすばやく引っ込めて。
 母が私の脇を通り抜けたとき、私はあることを思い出した。そして弾かれたように冷蔵庫に向かい、中からひんやりとした紙パックを取り出すと、中身を右手に持っていたものにぶちまけた。
 半分ほど入っていた液体が私の手と、成れの果て、絨毯をオレンジ色に染める。
 私は何やら満たされた気持ちになり、うっすらと微笑んだ。

                           【了】