次の日から、私の日課は仙人掌の世話になった。登校前に軽く水をやる。そして帰宅後、夏の焼け付くような日差しで乾いた喉を、冷蔵庫から取り出した、心地よい温度に冷えているオレンジジュースで潤したら、仙人掌にも水分補給の時間だ。たっぷりと、愛情を込めて水をやる。そしてもし雑草が生えてきていたら、割り箸を使って抜いてやる。箸使いが下手な私がそうすることは難しかったけれど、箸を使わないと仙人掌の針が手に刺さって痛い思いをすることになる。初めて刺さった時には、その痛さに思わずいたっ、と声が出てしまった程だ。不思議なのは、刺されてすぐに、絶対血が出たと思って手を見ても、しばらく痛みの余韻を感じるだけでなんともないことだ。
そういえば、プレゼントをもらった翌日に学校で早苗ちゃんが、終業式の放課後杏里ちゃんの家へ遊びに行っていい? と聞いてきた。私の家で遊びたいというのは珍しい。いつも私達は、早苗ちゃんの家でゲームをして遊ぶ。不思議に思って理由を聞くと、仙人掌の様子をみたいからだと言う。私が、あいつ愛されてるな、と内心苦笑しながら二つ返事でOKすると、早苗ちゃんは嬉しそうにある知識をくれた。
早苗ちゃん曰く、植物は話しかけてやると大きく成長するそうだ。だから私は、毎日二回目の水遣りの後に十分ぐらい、仙人掌にその日の学校での出来事を聞かせてやることにした。もちろん仙人掌はうなずいたりしないけれど、その時間、私には仙人掌が真摯に耳を傾けてくれている気がした。
誕生日から四日後の夜、お風呂からあがり大好物のオレンジジュースを一口飲んでいる時に、私はある事を閃いた。明日、仙人掌にオレンジジュースをあげよう。
私の家で、オレンジジュースは、私の好物にもかかわらず、二週間に一度ぐらいしか買ってもらえない。昔、母に理由を聞くと、私の好きな百パーセントのそれは高いからだというようなことを言われた。値段が普段は一リットルで二百円以上するので、母は百五十円くらいになったときにしか買わないのだと――。
値段を聞いたとき、私は予想外の高額に驚いた。一本百円ぐらいだと思っていたからだ。で、毎日イッパイ飲みたかったけど、母の説明に納得し、一日二口で我慢することにしたのだ。
私の大切な仙人掌だもの。私は明日の分を麦茶で我慢して、仙人掌にあげよう。そう心に誓って、その日は眠りについた。
翌日、学校から帰った私は、手も洗わずに冷蔵庫へと向かった。一刻も早く仙人掌にジュースをあげたい、きっと喉がカラカラになっているだろう……。仙人掌が喜んで急成長する様を思い浮かべ、私は一人ニコニコする。
リビングでコーヒーを飲みながらテレビを見ていた母が、リビングのドアを開けた時におかえりと言ったけど、私は無視した。母は返事ぐらいしなさい、と言って目をテレビに戻す。毎日母はこの時間、録画したケーブルテレビのドラマを見ている。スペイン語で話しているドラマで画面の下部に字幕が出る。私は聞くたびに、スペイン語ってどうして怒っているように聞こえるんだろう、と思う。普通の会話ですらだ。母は聞いていて疲れないのだろうか?
冷蔵庫にたどり着いた私は取っ手を掴み、両開きのドアを左右同時にガバッと開ける。オレンジジュースはいつもの定位置、左側のドアポケットに入っていた。私はひんやりする紙パックを掴みだし、ドアを振り返り様に閉めてから来た道を引き返す。そして母の後ろを通り、裏口のドアに手をかけた。すると、
「杏里! あんたジュース持ってどこいくん!?」
と、母に呼び止められた。
先程返事をしなかったせいだろうか、少し怒っているようだ。私は、私を待っている仙人掌の元へ早く行きたかったが、母が本気で怒りだすと怖いので、とりあえずドアノブにかけていた手を下ろし、母の方を向いて返事をすることにした。
「ちょっと、仙人掌にジュースをあげようと思って」
私は正直に答えた。仙人掌にジュースをあげることは、別に隠さなきゃいけないことじゃないし、寧ろ、誉められるべきことだと思ったからだ。他者と物を共有しなさいって、いつも母は言っているのだから……。以前、弟に私の分のオレンジジュースを分けてあげたとき、母はえらいわね、と誉めてくれたのだから……。
そのため、次に母が取った行動は、私にとって意外なものだった。ドラマを止め、私の方へと歩み寄り、ジュースのパックを取り上げたのである。
「え?」
私は思わず呟く。そして無意識に取られたジュースを取り替えそうと手を伸ばした。
パシッ!
乾いた小さな音が聞こえた。母が、私がジュースへと伸ばした右手を叩いたのである。呆然と手の甲を見つめる私を残して、母はスタスタと冷蔵庫へ行き、ジュースを元の位置へ戻した。
冷蔵庫の閉まるパタンという音で、私は状況に気付く。そして声を上げる。
「ちょ、何すんの! 私のジュース返してよ! それになんで手ぇ叩いたん!」
私は母に軽い怒りを感じていた。叩かれた手は別に痛くなかったけれど、意味の分からない行動をされては当たり前に腹が立つ。
「何って? ジュースなおしたのよ。あんたが妙なことするつもりだったみたいだから」
母は当然のことをしたとばかりに軽く言った。私はますますワケが分からないので、続けて尋ねる。
「妙なことって? 私はただ、仙人掌にジュースをあげよ――」
「それ!」
母が強い語調で言う。続けて、口調が甘ったるく丁寧なものになった。私をバカにするときに、母はよくそのような口調を使う為、私は反射的に身構える。
「杏里ちゃん、貴方、仙人掌にジュースをあげようとしたのよねぇ。貴方の大好きな百パーセントのオレンジジュース……。ママもこれ、おいしいから結構好きよ」
母はそこで一呼吸おき、どうやったらこのバカな子に説明してやれるかしら、とでもいうような目で私を眺める。
私は今回何も悪いことはしてない! 心の中でこっそりと母の態度に抗議する。だが、口にだすようなことはしない。というかできないし、しても無駄だ。どうせ、母に口で勝てるわけはないのだから……。
私の握り締めた拳を見つめた後、母の目が私の目を捉える。目じりが微妙に下がっていた。絶対に私が困惑しているのを楽しんでいる……、と思ったが、それでも私は黙って母の言葉を待った。
「杏里ちゃん……」
さっきとは打って変わって、母は悲しそうな声を出す。
「貴方、さっき友達から貰った大事な仙人掌を枯らそうとしていたのよ。私が止めてやらなければ、仙人掌は枯れていたかもしれないわ。オレンジジュースなんて、仙人掌に悪いに決まってるじゃない。どうしてそんなことしようとしたの? ねぇ、どうして? ……まさか、そんなこと、考えもしなかったワケじゃないでしょうね?」
母は言い終わると、私の表情の変化に満足そうな表情を浮かべ、さっき座っていた座布団に戻ってドラマを続き再生させた。
私、仙人掌をもう少しで枯らすところだった? 私の頭の中で母の言葉が何度も繰り返される……。
(貴方、さっき友達から貰った大事な仙人掌を枯らそうとしていたのよ)
私は床へ座りこんだ。母の言葉が繰り返されるにつれ、仙人掌への罪悪感が、私の胸の中でフツフツと湧き出してくる……。
――ソ、ウ〜ヨ! アナ、タ〜ハ! カラソートシタノ〜ヨッ!!
ふいに聞きなれない声が耳に入り、私はびっくりして顔を上げ、キョロキョロと周りを見渡した。だが、聞こえるのはテレビの音声だけで、母が口を開いた様子はない。空耳だろうか? でも、確かに聞こえたような……。
数秒後、声の主に見当がつき、私は驚愕し、背筋が寒くなった。……アイツに違いない。毎日、あんなによくしてやったのに……。
私は裏切られたような気持ちになり、リビングを飛び出すと、二階にある自分の部屋へ全速力で向かった。階段を駆け上がっていると、恐ろしいような気持ちにもなって、目が潤んでくる。
「違う!!」
自室に入るとすぐに、私は涙ながらに叫んだ。
「違う、チガウ、ちがっ、う……」
ベッドによじ登り、布団に潜り込む。
(アナ、タ〜ハ! カラソートシタノ〜ヨッ!!)
さっきの声が頭の中で反芻される。
「ちがっ、私は、ただっ……。ただ……」
言い訳をしようと言葉を紡ごうとするが、喉に物がつっかえでもしたように、私はそれ以上声を出せなかった。